封魔の城塞アルデガン 第3部:燃え上がる大地 後編

<第8章:屋上>


 アザリアが意識を取り戻したとき、あたりは宵闇に閉ざされていた。起こそうとした上体が折れたあばらの激痛に崩れた。一瞬振り仰いだ目がかろうじて夜空の様子を捉えた。

 西と北の二箇所に赤い残照が映えていた。
 天空から去った二つの太陽の名残だった。
 北の赤黒い残照にアザリアは目を向けた。

 あれはアルデガンめざす火の玉が天空を焦がすのか。
 それとも燃えるアルデガンの炎が大空を舐めるのか。

 無力だった……。止められなかった……。
 地獄の太陽の残照を見る目が絶望に霞んだ。その視線が祭壇に落ちた。
 かつて仲間だった男の無残な残骸が横たわっていた。吸血鬼の手に落ちたラルダを追いながらも及ばなかった己の力に絶望したあげく、狂気に堕ちてしまったガラリアン……。
 無力と絶望に軋むアザリアの心が骸に空しく呼びかけた。
 アルデガンを出奔しどこをどう流れてこれほど凄まじい妄執を育ててしまったの?
 あなたにとって、ラルダが失われた世界は無意味なものでしかなかったの?
 あなたを助けたのはあやまちだったの? ただあなたを苦しめたあげく、アルデガンとこの世が滅びと戦火の災いに落ちる結果を招いただけだったというの?
 私だって無力ゆえに絶望したわ! 何度無念に泣いたかしれない。それでも力が及ぶ限りのことをしようとしたのに……。
 こんな無残なあなたを見せつけられて、数多の人々が死ぬのを無為に眺めるしかできないなんて!

 あなたを助けたのはそれほどの間違いだったというの?
 ただ一度の過ちでこんな結末を見なければならないの?
 ……これほどの罰に値する罪だったとでもいうの……?
 絶望に屈しそうになったその時、一つの声がアザリアの脳裏によみがえった。
「私は誰ひとり守れず無為に死ぬしかないのですか?」

 痛みも忘れて中空を仰いだその目に、青い目に宿る激しい光が映じた。人間ならざるものに変わりゆく恐怖と絶望を突き抜けて燃え上がった光だった。
 あの集会所の朝と同じく、その光はアザリアを動かした。
 無為に死ぬなんてできない。リアだってあれほどの絶望に立ち向かったのだから、それもわが身のためなどでなく!

 アザリアは再び魔術師の骸に目を向けた。
「哀れなガラリアン。でも、誤ったのはあなただったのよ」
 痛苦に耐えて、アザリアは半身を起こした。
「あなたは自分ひとりの世界に生きていた。だから自分の絶望に抗うすべがなかった。守るべきものを失い自分の世界が崩壊したとたんにあなたの魂は支えを失い、なすすべもなく人の身のまま狂える怪物に堕ちるしかなかったのよ。わが身もろともこの世を滅ぼそうというほどの。
 でも私は、わが身が怪物に変わりつつあるのに人々を守ろうという意思を支えに絶望に抗う者を見た。だから私もここで屈するわけにはいかない!」
 激痛に喘ぎながらも、アザリアは開け放たれた檻につかまって立ち上がった。
「間に合わないかもしれない。もう終わったのかもしれない。
 それでも諦めないわ! たとえ死んでも!」

 そのとき心の何かが己の言葉に反応した。
 死線の中で研ぎ澄まされた勘だった。
 諦めない……? 死んでも……?
「そうよ。それがどうしたの?」
 死ぬ身なら……跳べるはず。
 幾多の危機を越えさせた声が告げた。
「まさか。転移の術!」
 アザリアは叫んだ。凄まじい速さで思考が巡った。

 今の自分では転移の呪文はとても唱えられない。なぜ?
 呪文が長く複雑だから。頭の傷が集中に耐えられないから。
 では、転移の呪文はなぜ難しい? 距離の問題?
 違う。無事に降り立つのが難しいから。
 高さを誤れば大空や地中に跳びこんで即死してしまうから。
 到達地点の探知と高さの緻密な指定が欠かせないから。
 ならば、ならば無事に降り立たなくてもよければ、
 唱えれば必ず死ぬ身の私が跳ぶのなら、
 呪文を刈り込んでしまっていい!
 地中にさえ飛び込まなければ、人間が空から墜落してくれば
 見張りの絶えない洞門前なら見落とされはしない!

 洞門前の空高くへと跳ぶだけの呪文!
 脳裏に浮かんだ呪文の長さは半分以下だった。これならば!
 白い長衣の裂けた裾を破ると指先を食い切り、血文字で顛末を書きつけた。そのとき懐かしい声が脳裏に響いた。
「絶対に無理をするな。必ず帰ってきてくれ」
 寺院の廊下で両肩を掴んだボルドフのぶ厚い手を感じた。

 思わず目頭を抑えながら、しかしアザリアは微笑んだ。
「……むちゃくちゃね。でも、もうこれしかないのよ」
 血文字の書状を腕に結びつけた。
「帰るわ! アルデガンに! 無事でいて!」
 集中し呪文を唱え始めたとたん頭の古傷から赤い闇が広がり、神速の呪文に負けじと視界を覆った。盲いてもなお縮めた呪文を唱え続ける白衣の魔術師に、真紅の死神が襲いかかった。





<第9章:アルデガン>


 叫び訴えるリアと解呪しようとするゴルツの様子にアラードは何かがおかしいと感じた。ラルダのときと違う!
 彼はグロスを見た。グロスもアラードを見た。その顔が蒼白になっていた。
「解呪の技が正常に発動していない。魂に向かうべき力がそれていたずらに肉体を苛んでいる。閣下の御心は危うい……」
「やはり!」
 アラードは地に伏すリアの側にかけ寄った。

 見るも無残なありさまだった。人間なら耐えようのない深手を全身に負いながらもリアは右手で半身を支え、左手で腕輪を握りしめつつ見えざる嵐に抗っていた。だが回復しようとする傷をも嵐の刃は容赦なくえぐり抜いていた。何度も噛みしめた牙が唇を裂き鮮血が顎まで流れていた。
 そのとき、何かが割れる音がした。支えの腕輪がついに砕けたのだ!
 なんとか拮抗していた抵抗を嵐の暴威が圧倒した。もはや回復するのが追いつかなくなり、見る間にリアの全身は塞ぎきれなくなった無数の傷から噴き出す血で朱に染まった。弱りつつあった叫びもついにとぎれた。
 それでも彼女は近づこうとするアラードに息も絶え絶えの声でいった。
「近づか、ないで……。逃げ、て……っ」

 目がくらみそうな怒りにかられてアラードは振り向いた。両手を広げて背後にリアを庇い、ゴルツに向かって叫んだ。
「やめてください! 閣下は間違っています!」
 その場の空気が凍りついた。
「なん……だと」
 ゴルツのぎらつく目がアラードをねめつけた。
「リアは人間です! 体こそ人間でなくても人間として行動しています! わからないんですか? 閣下も、みんなも!」
「ならば、その者の話もそなたは信じるというのか?」
 グロスがいった。
「なぜ我らが人間に攻められねばならぬのだ!」

「それは……わかりません」
 アラードの声がゆらいだ。
「なによりこの洞門を命に替えても守るのが我々の使命です。でも、せめて子供たちだけでも出してやってもいいのでは……」
 城壁からも、ためらいがちな同意の声がいくつか上がった。
「それでは、だめ……」
 やっと出るようになった声で、リアがまたも訴えた。
「信じなくていいの、私のことなんか……。でも、この話だけは信じて、信じてください。お願い! みんな!」
「そやつの言葉に惑わされるな!」
 ゴルツが一喝した。そして再び錫杖をかかげた。
「アラード、そこをどけ。どかねば容赦せぬぞ!」
「どきません!」
「きさま、そやつに魅入られたか!」

 アラードの怒りが再び燃え上がった。
「リアが人間の心のまま転化したと最初におっしゃったのは閣下じゃないですか! 死にかけたリアに血を飲ませてしまった私のことをそう責められたではありませんか!」
 アラードの叫びに周囲のざわめきがやんだ。
「毒蜘蛛の背に胡蝶を縫いつけたも同然だと、だから魂が苦しむのだと! そしてアルデガンを襲ったラルダがその苦しみゆえに無残に歪んでいたのを私たちは見たではありませんか!」
「アラード! やめてっ」
 リアが遮ったが、アラードはもう自分を止められなかった。
「閣下もわかっておられるはず。だから閣下の術はリアの体しか傷つけられないんです。魂に届かないんです。ごまかすのはもうやめてください!」

「きさま……」
 ゴルツの顔が歪んだ。錫杖を握る手が激情に震えた。すると、錫杖の輝きがじわり、と変じた。白い輝きにまごうかたなき赤みがさした。
「吸血鬼に魅入られ傀儡と化したか。主もろとも滅びよ!」
「おやめください、閣下! なりません!」
 ゴルツが振り上げようとした腕をグロスがやにわにつかみ、錫杖を奪おうとした。
「それでは呪殺です! 閣下の御心が砕けます!」
「おまえまで邪魔だてするかっ!」
 二人の司教は錫杖をめぐり争ったが、ゴルツは老人とは思えぬ力でグロスを突き飛ばした。そして冥府の炎の色と化した錫杖を高々と掲げた。

「なにか落ちてくるぞ!」
 城壁の上で誰かが叫んだ。全員が天を仰いだ。
 残照を残す空から落ちてきた白いものがゴルツとアラードたちのちょうど真ん中の砂地に叩きつけられた。
 白い長衣をまとった人間のようだった。宵闇の落ちた地上では人の目にはそこまでだった。
 しかし闇を見通すリアの目はそれが誰かも見て取った。彼女は悲鳴とまがう声で叫んだ。
「アザリア様ぁ!!」
「なんだとっ」
 砂地の四人はわれ先にとかけ寄った。

 こときれているのは一目でわかった。リアは師にすがりつき、聞く者の心さえも引き裂く悲痛な声をあげ泣き伏した。
 あとの三人はその姿を見ながら呆然と立ち尽くした。城壁の上の人々も同じだった。その一瞬、リアが人間でないことを誰もが忘れた。ゴルツの手から錫杖が落ちた。
「……転移の術。いや、唱えられたはずなど……」
 グロスがつぶやいた。
「さては高さを合わせず呪文を略したか。唱えて死ぬ身であればそれでよいと」
 ゴルツが呻いた。
「だがなぜ、なにゆえそこまで……」
 そのとき、アラードは気づいた。
「腕になにか結んでおられます!」
 グロスが結びを解いた。「これは! 閣下、書状です」
 ゴルツは布地を広げた。あとの三人ものぞき込んだ。そこには血文字でこうしたためられていた。

<二十年前に出奔したガラリアンがアルデガンを丸ごと滅ぼす妄執の果てに巨大な火の球を放ちました。アルデガンを洞窟の魔物もろとも吹き飛ばし焼き尽くす威力があります。ガラリアンは己の全てを火の玉に注ぎ込み抜け殻と化して死にました。彼の妄執が巨大な火の玉を束ねています。
 野望に利用するために彼に手を貸したのがレドラスの王です。二つの宝玉をはじめ必要な物をすべて与え何年もの歳月をかけて術を編ませました。しかしレドラスにとってアルデガンの破滅は陽動にすぎません。王は火の球を放つと同時にノールドに大軍を進めました。混乱に乗じて一気に攻め滅ぼすつもりです。
 もう防ぐすべはありません。今すぐ全員アルデガンを脱出して下さい>

「我らを野望を果たすための捨て駒にするというのか!」
 憤怒にかられてグロスが叫んだ。
「虫けらみたいに全員消し飛ばすと!」
 アラードが歯がみした。
「こんな、こんなことのせいでアザリア様が……っ」
 リアの涙に濡れた目が真っ赤に燃え上がった。
 そのとき城壁から悲鳴があがった。
「空が、空が!」
 南の空が血の色に染まっていた。平野を遮る峨々たる山脈の向こうから地獄の太陽さながらの巨大な火の玉が姿を現わした。
 見る間にそれは膨れ上がり、南の空を覆い尽くした。
「間に合わなかった!」リアが絶望に身をよじり叫んだ。
「アルデガンが燃え上がる……」アラードの脳裏にラルダの最期の呪詛がよみがえった。

「この地に封じられし魔物の脅威から人々を守ることこそ我らの使命。そのために死ぬ覚悟なき者などここにはおらぬ……」
 書状に目を落としたままだったゴルツが初めて口を開いた。
 その押し殺された声を耳にした誰もが戦慄した瞬間、ゴルツは血文字の書状を引き裂き叫んだ。
「だが、これは我らに対する裏切りじゃ!」
 照り返しを受け朱に染まった顔で、ゴルツは迫る火の玉を睨みつけた。
「数多の犠牲を払い魂を削って戦ってきた我らを背後から討つというか! ならばアルデガンの長たるこの身一つに使命を捨てた咎を負い、一命に替えただ我が仲間を守るのみ!」
 その声と共にゴルツは印を結び転移した。

「まさか、宝玉を!」グロスの声に振り仰いだ人々の目の前で、ラーダ寺院の尖塔の屋根が吹き飛び、巨大なつむじ風が吹き上げた。それは地獄の太陽と真正面からぶつかった。
 火の玉の巨体をつむじ風が巻き込み切り裂こうとした。濁った太陽は進むのをやめ、どす黒く変色しながらよじるような動きを見せた。
 アラードは何が起こっているのか気づいた。
「あれは、まさか解呪の技!」
「なんだと!」
 グロスの顔色が変わった。
「閣下は火の玉を束ねている妄執を砕くおつもりです!」
「無茶な! そんなことをすれば閣下は……」

 そのとき火の玉が広がりつむじ風を呑み込み、食いつぶそうとするように蠢き縮んだ。
 だが、つむじ風は濁った太陽を内側から突き破った。
 異様な音を立てて火の玉が爆散した。言葉にならぬ怨嗟が尾を引くような響きとともに、大小さまざまなかけらが火の雨と化して大地に降りそそいだ。多くが荒野に落ちて大地を焦がしたが、それでもかなりの炎が城壁や建物に降りかかり激しい火災があちこちで起きた。
「仲間の救助に向かえ! 火のこないところに脱出させろ!」
 城壁の上でボルドフの叫ぶ声がした。人々はあらゆる方向へ、守るべき者のいるところへわれ先にと走り去った。

 アラードたち三人はラーダ寺院を目指した。だが走るのが遅いグロスは遅れ、アラードとリアは二人で尖塔の螺旋階段を一気に駆け上がった。
 リアが先に宝玉の間に着いた。しかし彼女は部屋に一歩入ったところで立ちすくんだ。アラードは危うくぶつかりそうになりながら、なんとか脇をすりぬけて中に踏み込んだ。
 部屋の中はめちゃめちゃだった、屋根も扉も吹き飛ばされ崩れた石組みが積み上がっていた。その瓦礫に半身を埋めてゴルツが仰向けに倒れていた。宝玉の力を無理な術で解放した衝撃で体がずたずただった。床に大きな血溜まりができていた。
 助からないことは明らかだった。
「閣下、ゴルツ閣下!」
 アラードは叫んだ。去りゆく魂に届けと、ただ声を限りに。
「アルデガンは救われました。閣下の、閣下のおかげで……」
 だが、あとは言葉にならなかった。

 ゴルツが薄く目を開いた。
「アラード、か……?」か細い声が返ってきた。
「目が、見えぬ。リアも、いるのか……?」
 アラードはゴルツの手を取った。ほんのわずか、握り返すのが感じられた。
「そなたが、人の、心ゆえ、訴えている、のは、心のどこかで、感じて、おった……」
 リアへの言葉だった。アラードはか細い声に耳を寄せた。
「だが、認められなんだ。かくも無残に、ラルダは、歪み堕ち、己が手で、その存在を、否定し、滅ぼす以外、なかった。魂を、浄化する、ことも、かなわず……。
 その、口惜しさ、無念さが、そなたに、魂を、認める、のを、阻んだ……。アラードが、申した、とおり……」
 言葉がとぎれがちになった。

「無念さに、歪みつつ、あった。ラルダと、同じ。
 そなたを、解呪する、資格は、わしに、なかった……」
 体が痙攣を起こした。

「そなたを、牙に、かけたは、我が、娘。しかも、わしは、神の御元へ、そなたを、還せず、苛んだ……。
 いくら、詫びても、詫びきれ、ぬ……」
 ゴルツの手がアラードの手から滑り落ちた。

「だが、このまま、では、そなたは、苦しむ。その、人の、魂、ゆえ……。解放、される、には、誰か、の、手で、解呪、され、ねば……」
 消え失せようとする声が、最期の思いをからくも紡いだ。
「せめて……その、日が、すみやか、に、来る、こと、を……、祈らせ、たま、え……」
 末期の息が吐き出され、ゴルツはこときれた。

 こみ上げてくるものに耐えながら、アラードはゴルツの両手を胸の上に組ませた。すぐにグロスも来るだろう。
 彼を出迎えようと立ち上がったアラードは、リアが入ってきた戸口の横の壁に手をつき背を向けて立ち尽くしているのを見た。体が震えていた。泣いているのだと思った。
 戸口へ近づきながらアラードは声をかけた。「リア……」
「こないでぇーっ!!」
 極限まで切迫した異様な叫びに体が凍りついたとたん、赤毛の若者は血溜りからの凄まじい血臭にむせた。なぜ今まで気づかずにいられたのか!
 恐怖に目を見開いたアラードの前で、リアの体がじり、と動いた。無理やり押さえようとしつつ押さえきれないことがはっきり見て取れる動きだった。
 じり、とリアがまた動いた。半身になりかけていた。そむけた顔を片手で覆い、残る片手が抗うように石壁に爪をたてた。
 アラードはまったく動くことができなかった。リアがこちらを向いたら……。頭が考えることを拒否した。意識が真っ白になった。
 壁にたてられた爪が鋭く伸び、石がぼろりと砕けたとたん、リアが言葉をなさぬ悲鳴をあげた。それは絶望に食いつかれた者の絶叫だった。
「閣下!」そのとき階下からグロスの呼び声がした。螺旋階段を足音が駆け上がってきた。
 リアが振り向いた。両手で口元を抑え目を固く閉じたまま体を無理によじり床を蹴った。その身は夜空に大きく口を開けた窓の外へと跳び出し背中から落ちていった。
 入れ替わりにグロスが駆け込んできた。部屋の惨状に彼は切らせた息を呑み込んで一瞬立ち尽くしたが、ゴルツの亡骸のもとにまろび寄り膝まずくと深く頭を垂れた。
 アラードは全身汗まみれだった。声も出せず、膝にも力が入らなかった。彼はよろめき、壁に背をあずけた。
 そのとき窓の外で叫ぶ声が聞こえた。
「岩山が光っているぞ!」

 声を聞いて顔を上げたグロスの姿が金色に輝いていた。リアが身を投げた窓から射し込む光が彼を照らしていた。グロスが窓際にやってきた。アラードもやっとのことで窓の外を見た。
 洞門のある岩山の頂が金色に輝いていた。岩肌に亀裂が入り、そこから光が漏れ出ていたのだ。亀裂は見る間に岩山全体に広がり、まばゆい光の中でついに崩落が始まった。だが、土石は城壁に囲まれた広場の方ではなく、なぜかほとんどが背後へ崩れた。そしてアルデガンの外壁からあふれ出て荒野へとなだれ落ちた。もうもうたる土煙が薄れたとき、そこには洞窟から荒野へ下る土石の坂道がかかっていた。
 そして崩れた岩山から、金色の光をまとったものがゆっくりと夜空へ舞い上がった。
 遠目には小型の竜のような姿だった。きらめく緑と赤の蛇体に金色の輝きを放つ翼を持つそれはゆるやかに羽ばたいた。建物に燃え盛る炎が幾筋も弧を描いてその翼に吸い込まれ、金色の輝きがまばゆさを増した。さして大きくない体には釣り合わぬ途方もない力を秘めていることがひしひしと感じられた。
「炎を取り込むもの……。あれがリアのいう魔物の長か」
 グロスが呆けたようにつぶやいた。
 そのとき、アラードの視界の隅でなにかが動いた。

 尖塔の窓からはるか下の寺院の屋根の上にリアがいた。彼女は人々のいる地面には降りず屋根の上を伝って岩山へ、金色に輝く魔物のもとへ戻ろうとしていた。
 アラードは宝玉の間を跳び出し螺旋階段を駆け降りた。瞬間、人々の脳裏に強大な思念の声が響き渡った。金色の翼持つ魔物の呼びかけだった。
>人間たちよ。汝らの種族は自らを律し結界を守ることができなかった。汝らの種族はいまだこの世界を支配する資格を持たぬと知るがいい<
>結界の崩壊をもって、汝らが封じてきたものたちは再び地上に解き放たれる。同時に我が翼の庇護も終わる。汝らとこのものたちの命運は再びそれぞれの手にゆだねられる。我は二百年前に交わされた約定に従い、これを宣告する<

 思念の声を聞きながら走り続けたアラードは城壁の下の砂地にたどり着いた。ゴルツが尖塔に転移したのはつい先刻だったが、もはやかけ離れた光景が眼前に広がっていた。目の前にあれほど高くそびえていた岩山はほとんど姿を消し、洞門の高さの土台だけが残されていた。岩山の頂があった高さに浮かぶ金色の翼の守護者の放つ光の中に、天に向けて開いた洞窟からあらゆる姿形をした魔物たちが続々と這い出て群をなしていた。
 そして華奢な人影が一つ、その恐ろしい群に歩み寄ろうとしていた。

「リア……」アラードは呻いた。二、三歩前に歩み出た。だが、塔の上でのあの恐怖がよみがえり、その歩みを押しとどめた。
 そのとき、翼持つ守護者の思念が呼びかけた。
>汝、人間の姿と心を持つ者よ。なぜ歩み寄る?<
 アラードは守護者を見上げた。遠目には竜のように見えただけだったが、間近に見ると頭部がまったく違った。いくらか人間に似ていなくもない細い顔を取り巻く無数の触手が蠢いていた。髪の代わりに蛇を生やした女めいた顔だった。
「私はもう人間ではないわ。だから人間たちとともに在ることはできない」
>……我には汝と人間の区別がつかぬ<
「あなたのその言葉に背中を押されて私は地上へ戻った。少なくとも心だけはまだ人間だと、人間として行動できるのではないかと思えたから、いえ、そう思いたかったから!
 心だけはそうだったかもしれない。私を信じようとしてくれた人もいたわ」
「でも、私はやっぱり人間じゃなかった! 信じてくれた人さえ危うく牙にかけるところだった!」
 一瞬とぎれた声が、しかし絞り出されるように呻いた。
「だめなのよ、もう、いくら人間でありたいと願っても……」

 アラードはがくりと膝をついた。胸が張り裂けそうだった。
 あのとき瀕死のリアにしたたる血を飲ませた自分は、ただ彼女を失いたくないだけだった。彼女の魂がこの世から消え去ることに耐えられず、どんな形であれ、この世に留まり続けてほしいと願っただけだった。
 自分の思いは純粋だとさえ心のどこかで感じていた……。
 その結果がこれなのか!
 どこまでも人間としての心を失わずにいたいという思い。自分の執着などよりずっと切実なはずの願い。それをついに自ら断念しなくてはならないところまで彼女は追い詰められたのだ!
 なんということをしてしまったのか……。

>だから、このものたちと行くというのか<
「人間の間にはもう私の場所はない。私はここにいるどんな魔物よりも人間にとって有害な存在。だから、せめて彼らを棲むべき場所へ連れて行くわ」
>棲むべき場所?<
「この北の大地には実りが少ない。この地に留まるならば彼らは人間を屠るしかない。
 でも実りの多い場所に棲めたなら、必ずしも人間しか糧にできないわけではないのよ。
 だからあなたも彼らを洞窟で養うことができたのでしょう? 洞窟の中にキノコや様々な生き物を増やして与えることで。
 この中で、本当に人間しか糧にできないのは、私だけ……」
「リア!」アラードはたまらず叫んだ。

 リアが振り向いた。幼いときから身近に見知ってきた少女の顔がけなげにも淡く微笑んでいた。だがそれは、あまりにも大きなものを諦めることでかろうじて得られた平静のはざまに、やっと浮かべることのできたものとしか見えなかった。
 そうまでして自分に微笑みかけようとするその心の痛ましさを想っただけで耐えられなくなった。声を限りに叫びたかった。
 そんな、そんな微笑みを向けられる資格なんかないんだ!
 だが声一つ出せなかった。千々に心乱れるばかりだった。

「私は最悪の魔物なのよ。もう私の場所はここしかないの」
 リアの声が聞こえてきた。
「大司教閣下が亡くなられて、私を解呪できる人はもういない。自分で死ぬこともできない……」
 表情が翳ったとたん、はかない微笑みはゆらいで消えた。
「……私はきっと多くの人を殺めることになるわ。
 だから約束して。いつか必ず私を滅ぼしにきてくれるって」

「それが……望みなのか」
 やっと出るようになった声でアラードは問うた。
 リアは頷いた。

「……約束する。いや、誓う!」
 アラードはいった。一言ずつ、胸から削り出すように。
「ただリアをこの世に留めたかったんだ。どんな形でもいいと、とにかく失いたくないと、あのとき願ってしまった……。
 それがリアを苦しめたんだ! これほどむごく、残酷に。
 叶えないなんてもう許されない。たとえどんな望みでも!」

 リアはふたたび微笑んだ。だが、そこにはまぎれもない喜びとかそけき希望の光が射していた。
「私の魂はアラードに願われてこの世に留まった。だからラルダみたいに自分を憎まずにいられた。私がせめて自分にできることをする気になれるのは、アラードのおかげよ。
 だから私は魔物たちと行くわ。この身を置ける場所で今できる何かをなすために。
 私のところへ来るときは、魔物たちのいる場所を訪ねて」

>汝の置かれた境遇は我には不可解なもの<
 守護者の思念が呼びかけた。
>だが、汝は我に似ているのかもしれぬ。種族としての自らを律せられず故郷を滅ぼして離散したあげく、本来我が場所ならざるこの世界に在りながらもその意味を求めてやまぬ我に<
 金色の翼が大きく羽ばたくと、きらめく蛇体はさらに高みへと浮かび上がった。
>この地での我が役割は終わった。我はまたこの世界に漂着した意味を探しにゆく。汝もその心の導く道をゆくがいい<
 その思念を最後に、守護者は翼からの光を流れ星の尾のように引きながら、ゆるやかに西の空へと飛び去っていった。


 いまや荒野に燃える炎だけがあたりを赤く照らしていた。魔物たちの群は照り返しの中に黒々と浮かび上がり、炎を受けた無数の目が赤く輝いた。アラードと向き合ったままリアが数歩後じさると、彼女の姿も黒い影に溶け込んだ。すると彼らは動き出し、荒野に下る坂道を土煙を上げながら降り始めた。
「約束よ。アラード」
 うごめく影の群の中から声がした。
「いつか必ず滅ぼしにきて……」

 魔物の群は炎を上げる荒野を黒い大河のように遠ざかり、平野を遮る峨々たる山脈の麓に溶け込んでいった。アラードは崩れた岩山から荒野に下る坂道の上に立ち尽くし、リアの去った道を、自分と分かたれた道を、彼女の最後の声を胸に刻みつけたまま、ただいつまでも見つめていた。





<第10章:野営地>


 レドラス軍は火の球がノールドの国境を越えたのにやや遅れて攻め込んだ。
 砦の軍勢は低空をかすめる巨大な火の球の飛来に浮き足だち、レドラス軍の侵攻に組織的な対処ができなかった。たちまち砦は陥落しレドラス軍によって火をかけられた。
 レドラス王ミゲルは恐怖で敵の抵抗を挫くため、敵兵や領民の虐殺を命じていた。異民族の数をできるだけ減らし空の火の球と地上の軍の恐ろしさで反抗の芽も摘んでしまう。火の球の直撃によるアルデガンの滅亡とレドラス軍の恐怖に挟み討ちされれば砦と同様ノールドの王城リガンもあえなく陥落するはずだった。
 残酷な命令は実行された。砦を次々に落とし村々を略奪しつつ侵攻するレドラス軍の背後には、業火とどす黒い煙と死体の山が残された。女子供も容赦なかった。わずか一日でノールド領内の南部平野の大半が無慈悲な蹂躙に血塗られた。

 次の日もレドラス軍は北上したが、日が落ちたのでミゲル王は焼き討ちにしたある村の外れに野営することにした。将軍は惨殺した村人たちの死体の始末を兵士たちに命じた。
 村で見つけた荷車に村人の体や首を積み上げ手近な崖下に捨てようとした兵士たちは、茂みの前に一人の華奢な少女がいるのを見つけた。口元を押さえ俯いていたので顔こそ見えなかったが、淡い金髪と白い肌は夜目にも見てとれた。
「まだいたのか、へへっ、上玉じゃねえか」
 兵士たちは荷車を放り出して少女を取り囲んだ。散乱した死体の山から子供の首が一つ、少女の足元まで転がった。
「つまらん仕事やらされてんだ。褒美ぐらい当然だよなぁ」

「書状は読んだわ。でも信じたくなかった、こんなこと……」
 細くてきれいな声だった。それも涙声だった。だが、その声のなにかが襲いかかろうとした男たちの体を凍らせた。
「みんなはこの人たちを、地上の人間すべてを守るために戦っていた。たくさんの仲間が斃れた。私の父もそうして死んだわ」
 頭の後ろで束ねられた金髪がざわり、と揺れた。
「洞窟から魔物たちを出してはいけない、ただその一心で封じていた。力弱い者は死に、心弱い者は狂いまでして。
 なのにその洞窟をあなたたちはこじ開けた! アザリア様までそのせいで死んだ。それだけじゃないわ!」
 怒気とも妖気ともつかぬものが細い体から目に見えんばかりの濃密さで吹き出した。
「魔物だって人を殺す。食べるため、生きるために。
 でもあなたたちは殺したのよ、胸一つ痛めず! 生きるためでさえないのに! 人の身でありながらっ」
 少女が顔を上げた。整った華奢な顔だった。しかし涙に濡れた瞳は真紅に燃え、いいつのる口元には細く尖った牙が光った。
「それでも人間なの? 魔物以下よっ!」
「き、吸血鬼だ!」兵士たちの悲鳴と同時に茂みから異形の影がいくつも躍り出た。男たちはたちまちあぎとに捉えらればりばりと噛み砕かれた。その間にも魔獣や亜人たちが闇の中から続々と姿を現わした。
「分散してはだめ。互いにむだな犠牲が増えるわ。固まって突破して!」
 少女の思念に応え、魔物たちは吠えた。



「なんだ? 騒々しい!」
 天幕で休んでいたミゲル王は将軍たちに尋ねた。そのとき一人の兵士が転がり込んできた。
「ま、魔物の大群です」「なんだと!」
 天幕から飛び出した王と将軍たちは、目の前の光景に立ちすくんだ。

 広場には魔物たちがあふれていた。人間に似た亜人や巨人から悪夢のような魔獣まで、ありとあらゆる姿形の魔物たちが恐慌に陥った軍勢を蹴散らしていた。手向かう者は容赦なく食い殺されたが、魔物と出会うことなど想像もしていなかったレドラス軍はもろくも総崩れとなり壊走し始めていた。
「者ども! 逃げるな! 王命だぞ!」
 ミゲル王は叫んだ。その声に応えがあった。
「あなたなのね。虐殺を命じた邪悪な王は!」
 魔物の群からほっそりした少女が歩み出た。子供の面影さえ残したその顔の真紅の瞳と細い牙がかがり火の光に映えた。
「これほどの残虐非道、絶対許せないっ!」
「吸血鬼だ! 斬れ、斬れえっ!」
 ミゲル王の声に将軍の一人が大剣を構え、腰だめに突進した。大剣は少女の薄い胸から背中まで貫いた。
 だが少女が細い腕を無造作に振り抜くと、将軍の体は宙を舞い仲間たちに激突した。
 突き抜けた剣をそのままに少女は王に向かって歩みを進めた。ミゲル王は恐怖のあまり腰を抜かし、それでも後じさりしながらわめいた。
「いやだ、死にたくないっ! 来るなぁ!」

 そのとき少女の顔に動揺が走った。
 目の赤光が薄れ、一瞬青みをおびた。
 歩みが止まり、伸びた牙が折れそうなほど食いしばられた。

 だが一瞬の逡巡ののち、彼女は王にむしゃぶりつき、細い牙が吸い込まれるようにその喉を穿った。背中まで突き抜けた剣さえ抜かずに王の首を貪る少女。その姿の恐ろしさに将軍たちは逃げ去った。



 とうとう本当に堕ちてしまった……。
 渇きの狂気から我に返ったリアをまっさきに捉えたのは、その思いだった。
 足元には血を吸い尽くされた男の骸が転がっていた。
 邪悪な王。アルデガンの瓦解の元凶であり軍勢を駆って隣国の民を虐殺した憎むべき王。
 確かにこの男はそうだった。

 だから自分は、この男なら殺してもいいと思った。いや、そう思い込もうとしていた。
 この男なら殺しても、後ろめたさも胸の痛みもなにも感じずにすむのではないか。心のどこかで、確かに自分はそう期待していた。

 しかし自分が襲いかかろうとしたあの最後の瞬間、彼の叫びがかつての魔獣の断末魔のように自分の心に感応した。そこにいたのは吸血鬼を、迫る死を前にただ脅える一人の人間だった。
 憎むべき邪悪な侵略者という外面が剥げ落ちてみれば、魔物の餌食になるばかりの哀れな男がいただけだった。
 それなのに……。

 自分は堕ちてしまった。ほんの二ヶ月前、魔獣の断末魔に魂を感じて戦うこともできなかった自分は、哀れな人間の魂を感じていながらその血を貪る化物になり果ててしまった。

 リアは胸を貫いたままだった大剣を引き抜いた。傷はたちまちふさがった。
 男の骸を焼くために炎の呪文を唱えた。予想もしなかった激しい炎が爆発し瞬時に骸を焼き尽くした。もともと高かった魔力が転化したため桁違いに強まっていたのだ。リアは慄然とした。

「私は最悪の魔物なのよ。この中で本当に人間しか糧にできないのは、私だけ……」
 アラードと別れるときに自分がいった言葉だ。だがあのときの自分は、まだその意味を本当にわかってはいなかったのだ。

 私は人を殺す。生きるためでさえない。
 死ぬことができないのだから……。
 ただ狂気をもたらす渇きに耐えられないだけ。
 正義をかたる資格なんて、ない……。

 リアは魂の軋みにあえいだ。
「アラード。どうなるの、私……」
 いつかは心が冷えきって、何も感じなくなるのか。渇きを癒すだけのために冷淡に人を殺せるようになるのか。
 それとも魂が軋みに耐えきれず歪んでいくのか。己を、運命を否定するあまり、すべてを呪うしかなくなるのか。あの痛ましいラルダのように。
 あるいはこの恐るべき力が内なる邪悪さを引き出すのか。ラルダやアルマをなぶったあまりにも嗜虐的な吸血鬼がおそらくそうだったように。

 厭わしかった、呪わしかった、おぞましかった。
 だが、この軋みが、苦しみがいつまでも続くとしたら……。
 耐え難い恐ろしさだった。

「苦しみから解放されるには、やはり誰かの手で解呪されるしかない」
 ゴルツの末期の言葉がよみがえった。
「せめて、その日がすみやかに来ることを祈らせたまえ……」

 アラードはいつ来てくれるの?
 解呪の技を修めることができるの? できなかったら?
 私のことなど忘れてしまったら?

 ……死んでしまったら……?

 足下にぽっかりと虚空が口を開けたのをリアは感じた。
 深淵から冷たい虚ろな風が吹き上げた。
 人間の魂など、永遠というものに耐えられはせぬ。
 深淵が、虚ろな風がそう告げた。
「アラード! 助けて、早く! 誰か……っ」
 天を仰いでリアは叫んだ。だが、その悲痛な叫びは酷薄な風に吹き散らされた。

 はるか背後の北の大地は荒野を焼く炎に赤く、魔物たちが向かう南の大地はいまだ暗黒に閉ざされている。
 炎はいずれ燃え尽きる。ならば、すべてがただ暗黒に呑まれるだけなのか。
 リアはひとり天地の狭間に立ちつくし、ただ深淵と虚ろな風に心おののかせるばかりだった。





<第11章:エピローグ>


 三日間にわたって燃え盛った炎がようやく下火になったとき、アルデガンは変わり果てていた。

 結界の源だった宝玉を収めたラーダ寺院の尖塔は崩れ、魔物を封じていた岩山は完全に姿を消していた。炎が振り注いだ城壁や建物にはいまだに燃えているものも煙を立ち登らせているものもあった。結界を失い魔物が解き放たれたアルデガンはもはや封魔の城塞ではなかった。こじ開けられ焼け焦げた空の檻だった。
 とはいえ金色の翼の魔物が炎をかなり吸い上げたために見かけよりは被害が少なく、人的な被害はさらに少なかった。死者はゴルツとアザリア以外に運悪く炎の直撃を受けた者が数名。大きな火傷や傷などを負った者もそういなかった。火災の規模を思えば奇跡的とさえいえた。

 しかし人々の心に残された爪跡は深刻だった。その荒みようは焼け跡など足下にも及ばないものだった。

 アザリアの書状を直接目にした者は砂地の四人だけだったが、城壁にいた者たちはリアの訴えやゴルツの叫びから事情を悟っていた。なにより外界から襲いかかったあの凄まじい火の玉の姿を見た者ならアルデガンが外からの力で破られたとしか思いようがなかった。裏切られ背後から襲われたように誰もが感じた。
 しかも追い討ちをかけるようにもたらされた戦禍の知らせは、アルデガンの人々、ことにノールド出身の者にとってあまりにも残酷なものだった。


−−−−−−−−−−


 焼け跡と化したアルデガンには王城リガンからきた小隊の姿があった。火の玉の標的となったアルデガンの状況を把握し、もし生き残りがいたなら緒戦で失われたノールドの兵力に組み入れることが目的だった。
「わずか二日でこれだけの村々が焼かれ滅ぼされた! 生存者も確認されていない!」
 読み上げられた村の名前を聞いた人々の悲鳴や怒声に負けじと小柄な小隊長は声を張り上げた。
「この地を襲ったあの火の玉もレドラスが放ったものと確認されておる。レドラス許すまじ! レドラス討つべし! 我と思う者は遠征隊に志願せよ!」
「レドラス許すまじ!」洞門前の砂地に集まった人々の叫びは地鳴りのようだったが、野太い声がその響きを突き抜けた。
「遠征隊? おかしいではないか。今聞いた村の名前ならば敵はノールド領内深く攻め入ったはず」
 大熊のようにボルドフが立ち上がった。
「領内の迎撃なのになぜ遠征隊なんだ。何か隠しているな!」

 あたりの空気が変わった。怒鳴り返そうとした小隊長は自分が猜疑の視線の只中にいることに気づいた。
「じゃあ、おれたちの村が焼かれたのも嘘か?」
「嘘なんだろう!」「嘘だといって!」
「ま、待ってくれ! 嘘じゃない、嘘じゃないんだ!」
 殺気だった人々に詰め寄られた小隊長は悲鳴をあげた。
「レドラス軍が南部平野一帯を焼き払ったのは本当なんだ。だが我が軍が迎撃に向かったときには、なぜかレドラス軍はもう壊走していたんだ」
「どういうことだ? なにかわからないのか!」
 ボルドフの巨体に威圧された小隊長は後じさった。

「……捕虜を何人か捕まえたんだが信じられないことばかりいうんだ。魔物の大軍に蹴散らされたとか、王が吸血鬼に吸い殺されたとか……」
「吸血鬼だって?」
 人垣から跳び出した赤毛の若者が小隊長に掴みかかった。勢い余った自分の手が相手の首筋を絞め上げているのにも気づかず、彼は小隊長をゆさぶった。
「本当なのか? どうなんだっ!」
「やめろ、アラード! 手を放せ」
 ボルドフがアラードを引き離したおかげで小隊長はやっと声が出せるようになった。
「……捕虜にした将軍がそういったんだ。小娘の姿をした吸血鬼が王を襲ったと、大剣で串刺しにされても全くひるまずたちまち王を吸い尽くしたと。
 でも、本当かどうかもわからないんだ。王の死骸らしきものは見つからなかった。逃げた王をかばうために嘘をいっているだけかもしれないんだ」

「魔物がいた痕跡は?」
 蒼白になり立ち尽くすアラードを押しのけボルドフが低い声でたずねた。
 小隊長ははっきりとうろたえた。
「あったんだな! ならばなぜレドラス軍の壊走を隠した!」
「理由なんか知らない、ただいうなと命令されただけなんだ」
「王宮の意志か……」苦々しげにボルドフがつぶやいた。
「レドラス軍が統制を失い壊走したのを好機と見て遠征隊を組織しようという気か。村を焼かれた者の憎しみを煽って……」

 ボルドフは仲間たちに向き直った。
「レドラス軍の狼藉は事実だ。それは疑いない。だが遠征隊には参加するな。それでは今度は我らがレドラスの民を殺めることになるぞ!」
「でも、レドラスは断じて許せない!」
 一人が叫ぶと、砂地はたちまち怒号のるつぼと化した。
「冷静になれ! 我らは人々を守るために魔物たちと戦ってきたのではないか。おまえたちはその誇りも忘れて人間に刃を向けるつもりか!」
「やつらは人間なんかじゃないっ」「あいつら悪魔だ!」
 同調する者、反論する者の怒声や悲泣が入り乱れたが、裏切られたという思いに加え故郷の無残な最後を知らされた者たちの怒りは、憎しみはもはや誰にもとどめようがなかった。
 結局、午後になるとノールド出身の者の大多数が小隊とともに王城リガンに向けてアルデガンを出ていった。


「あの金ぴかの化物の説教が正しかったというのか!」
 悔しさを隠せずボルドフは吐き捨てた。
「これでは西部地域の愚行の二の舞だというのに……」
「隊長はこれからどうなさるおつもりですか?」
 背後からアラードの声がたずねた。
「アルデガンを出た魔物を追うつもりだ」
 ボルドフは即座に答えた。
「南下して国境を越えたというがそんなことはかまわん。どこの民であれ魔物の餌食になる者を一人でも多く救いたい。今までと同じことを続けるだけだ」
「それより俺はもう隊長ではないぞ、アラード」
 苦笑しつつ振り返った巨漢の表情が引きしめられた。
「私もいっしょに連れていってください!」
「……かまわんが、なにをそんなに思いつめている?」
 アラードはボルドフに魔物たちと去ったリアとの誓いのことを打ちあけた。

「……それで魔物たちを追うつもりか。だが解呪の技はどうするんだ? 俺にはあんなもの教えようがないぞ」
「それは、あの方にお願いするしかありません」



「前にいっただろう? 私自身が解呪の技を発動できずにいるのだと」
 グロスはアラードをまじまじと見つめた。
 ラーダ寺院の地下にある霊廟だった。グロスはこの三日間ここに篭り続けゴルツやアザリアをはじめとする犠牲者たちに祈りを捧げていた。やつれた印象だった。疲れもあるのだろうがどこかうつろで覇気が感じられなかった。
「術式を身につけておられる方はもうあなたしかいないんです。あなたにお願いするしかないんです!」
 アラードの必死の頼みにも、グロスはため息をついてかぶりを振るばかりだった。
「発動できない私が教えたところでそなたも発動できるようにはなれまい。それでは意味もなかろう?」

「ならば、これからどうするつもりだ?」
 ボルドフが問うた。
「同い年のよしみでいうが、墓守になるのは早すぎるぞ」
 グロスは答えなかった。ボルドフもまたため息をついた。
「閣下にお仕えしながらなにもできなかった、どうせそんなことでも考えていたのじゃないのか? グロスよ」
「なぜ……、なぜわかるんだ……?」
「その顔をみてわからん奴がいるか」
「……この三日間、ずっと考えてきたんだ。これほど長くお側に仕えながら、私になにができたのかと。なにもなせなかったではないかと……」
 グロスは床を見つめながらつぶやいた。
「なぜ私はかくも無力なのかと……」

「なあ、俺は思うんだが、そもそもゴルツ閣下にお仕えしようというのが間違いだったんじゃないか?」
 ボルドフはグロスをまっすぐ見つめながら言葉を続けた。
「ゴルツ閣下に途方もない負い目を負ってしまったおまえにそれ以外の道がなかったのはわかる。だが、閣下はアルデガン最高の術者だった。おまえに限らず誰だってかなう存在ではなかった。だから閣下を助ける機会そのものがなかった。身の周りの世話や雑務をこなすのがせいぜいだった」
 グロスは黙ってボルドフを見上げていた。
「俺が見た限り、おまえは閣下を実によく補佐した。現に閣下は助かっていたと思う。しかし大きすぎる負い目を負ってしまったおまえ自身はそれでは満たされなかった。それが己の無力として感じられ身を苛んだ、違うか?」

 ボルドフはグロスの肩に手を置いた。
「おまえが無力なんじゃない。助けを必要としていない者に仕えてしまっただけなんだ。そしていまここにおまえの助けを必要としている者たちがいる」
 ボルドフはグロスの体をアラードのほうに向かせた。
「いまアラードがいっただろう。もうこいつ一人の話じゃないんだ。リアは解呪されない限り滅びることができない。心ならずも人々を牙にかけ続けるしかない。おまえが諦めたならこの運命は変えられないものとして定まってしまう。アラードも、リアも、多くの者がおまえの助けを必要としている」
「定まってしまう? 諦めたら?」
 グロスがはっとしたように繰り返した。

「アラードは未熟で思慮が浅い。それがこんな事態を招いた。
 しかし本気で自分の過ちをつぐなおうとしている。この覚悟に免じて助けてやってくれないか」
「お願いします! どうか……っ」
 アラードはグロスに額づいた。

「顔をあげてくれ、アラード。額づかれる資格など私にはない。そもそもラルダを見捨てて逃げたのは私なのだから」
 グロスはアラードの前に身をかがめ、その手を取った。
「閣下もそなたも仕方がなかったといってくれた。あんな吸血鬼が相手ではと。たしかにそうだったのかもしれない。
 でも、なぜか諦めきれなかった。あの時逃げなければなにかが違ったのではないかとずっとずっと思っていたんだ」
 うつろだった目に熱がこもっていた。
「あの時私が逃げたばかりにラルダの運命は定まってしまった。それがリアの運命を狂わせた。リアが誰かを牙にかけるならば、その者の運命もだ」
「ここで諦めたなら過ちを繰り返すことになってしまう。これは私のつぐないでもあるんだ! こちらから頼む。私をいっしょに連れていってくれ!」
「ありがとうございます……」
 アラードはただ繰り返すばかりだった。

「閣下のことはアザリアに頼んでおこう、それなら心配ない」
 ボルドフは祭壇に安置された棺に向き直った。
「なにしろアルデガン最高の守り手だったんだ。最後までな」
 巨躯の戦士が祈りを捧げた。残る二人も彼に倣った。


−−−−−−−−−−


 翌朝、三人はアルデガンの城門を出た。
 仰ぎ見た城壁は二十年前の嵐の夜に出奔した若者が見たものと同じだったが、それは崩壊した岩山の土石があふれ出たときに崩れ、業火に焼かれた跡をあちこちにとどめていた。その姿に彼らはそれぞれがこの地で過ごした日々を一瞬重ね合わせ、心の中で別れを告げた。

 城壁に背を向けたとたんに強風が真正面から吹きつけた。灰が混じった土埃が荒れ狂うように舞い上がった。
 思わず振り仰ぐと暗雲が風に乗って渦を巻きながら押し寄せていた。崩れた城壁に襲いかかる黒い軍勢さながらだった。轟く風音までが軍靴の響きに聞こえた。
 だが黒一色と見えた空のうちはるか南にただ一ヶ所、わずかに雲が切れていた。渦巻く黒雲からのぞいた青い空は峻烈なまでにまぶしく見えた。

 それはなぜか、ひどく心ゆさぶる光景だった。

 三人は高く顔をあげ、長い旅路の第一歩を踏み出した。激しい光を宿した青空の欠片をまっすぐ見つめながら。


                         終

この小説について

タイトル 封魔の城塞アルデガン 第3部:燃え上がる大地 後編
初版 2018年10月8日
改訂 2018年10月8日
小説ID 5059
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ふしじろ もひとの写真
熟練
作家名 ★ふしじろ もひと
作家ID 1016
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人間ならざるものが出てこないお話はいっさい書けないという奇病持ちの隠者です(汗)

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